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慈寛大師のふるさととわたし 円仁と岩舟 岩舟町の皆さん、こんにちは。まずは、慈覚大師円仁について申し上げます。 古来東山道の駅家(うまや)があり、薬師寺を控えた東国教化の要地であるこの岩舟の、壬生家に円仁が生まれたのは、新しい日本の幕開けである平安時代の初年、西暦7年でした。円仁は、時代を自ら切り開いていったのです。名刹大慈寺の広智という不出世の教育者との出会いがあり、入門。そして808年、15歳にして、日本仏教の若きリーグー、比叡山の最澄のもとで、新たな研鑽を始めました。(来年が最澄入門1200年記念の年です。) 厳しい修行と他宗からの働きかけ等により、学生が比叡山から脱落する中、円仁はじっと耐えて、来るべき時を待ちました。さらには、師匠の最澄没落後も里にはおりず、日々精進をして、師最澄の教えを全うせんとしましたが、人々が放っておかず、再三再四の要請により、説法を始めました。あるいはこのころ、ふるさとと東国に巡錫(じゅんしゃく)し、人々の魂を導いたかと思えます。 42歳の折、ついに円仁に入唐の勅命がくだります。くしくも835年というのは、日本の一時代を築いた空海の入定の年であり、まるで歴史から、空海の後の日本文化をたくされたかのようです。(実は意外に天台密教と真言密教は親密な関係にあったと私は見ています。) 838年、慈覚大師一行の遣唐使は、苦難の果てに入唐します。しかしなぜか天台山には入山を許されず、決死の覚悟で帰りの遣唐使船を脱出します。 五台山にて修行の成果を挙げた後、首尾よく長安に行き密教の大法を授かったのも束の間、なんと武宗皇帝の乱心したかのような仏教の壊滅的な弾圧‐に遭遇し、ついには軟禁状態か、犯罪の逃亡者のような生活を余儀なくされます。世界3大旅行記としての評価の高い漢文の日記「入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゅんれいこうき)」の、苦難の残り6年間は、涙なくして読み進められません。今よき現代語訳が出ておりますので、興味のある方はぜひ読んでください。 |
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文化のふるさと岩舟 岩舟の歴史と自然、文化の大きさは格別です。 岩舟の古墳文化は、その石室の形態等から、歴史的視点から再評価されねばなりません。 岩船山は民間信仰の大きな拠点でした、だからこそ鳥取の寺院、名願上人との結縁が成ったのでしょう。岩船山は天下の地蔵尊として尊敬を集め、鎌倉後期は、新田義貞が祈願に来ました。また江戸時代を通じての、徳川家門閥累代の、岩舟地蔵信仰は、数え上げれば切りがありません。 大慈寺も古来連綿と信仰のメッカとの役割を果してきました。 また岩船山が、植物学者の注目すべき貴重植物の自生地であることをはじめ、豊富なくわがた、蝶等々、岩舟の豊かな自然環境は圧巻とさえいえます。 三鴨山は、万葉集における東国の貴重な歌として詠みこまれたことをはじめ、中世以降、歌の題材のメッカとしての名を欲しいままにしてきました。その風土ゆえ、慈覚大師円仁のみではなく、さまざまな偉人が輩出、ゆかりを持ち、さらには夢の興亡を演じてきました。 円仁を継いだ比叡山の座主は、大慈寺の弟弟子の安慧(あんね)でした。小野小町の伝説(大慈寺祈願、身投げ、墓、い草伝説)もあります。 また藤原秀郷が平将門を討った、舞台ともなり(村桧神社に戦勝祈願)、武勇を謳われた武人もいます。 中世、戦国時代、そして近世にかけての史実も、枚挙に遑(いとま)がありません。 新田義貞の祈願の後も、親鸞上人が立ち寄ったり、一遍上人がやってきました。上杉謙信、武田信玄らの戦国大名の領地の取り合いの、代理戦争の場ともなり、岩舟をめぐる覇権争いは特筆すべきものがあります。 それらを岩舟の山々と川たちはやさしく、悲しく見続けてきたのでしょう。 |
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― 略歴 ― 1959年栃木県岩舟町新里生まれ。 県立栃木高校卒。早稲田大学第一文学部卒(東洋哲学専修)。 二松学舎大学大学院博士後期課程満期退学、早稲田大学大学院博士後期課程退学。 現在、早稲田大学文学部講師。研究分野は日中書道史、文化史。文学博士。 主な書作品収蔵先・・・日光山輪王寺照尊院、四国一番札所霊山寺、中国翰園碑林内石碑(河南省開封市)、他。 |
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