輝く岩舟人 岩舟町で活躍中のひと

「輝く岩舟人」では、現在活躍中の岩舟出身の「ひと」をご紹介しています。

第7回 綾部 宏行(光洲)さん

はじめに

今回は町の「芸術の里づくりの事業」の第一弾としてNHK番組の岩舟版「ようこそ先輩!課外授業inいわふね」の第一回に選ばれた三人、早稲田大学の先生で文学博士、書家の綾部宏行さん、声楽家の長濱厚子さん、小説家の関口尚さんの中から綾部先生に登場していただきました。

4月21日、コスモスホールで慈覚大師円仁についての先生の講演がありました。そのときの内容は、栃木ケーブルテレビで繰り返し放送されましたのでご存知の方も多いと思います。先生はお忙しい中、岩舟町について、円仁について思いを寄せてくださいました。

慈寛大師のふるさととわたし
円仁と岩舟

岩舟町の皆さん、こんにちは。まずは、慈覚大師円仁について申し上げます。
古来東山道の駅家(うまや)があり、薬師寺を控えた東国教化の要地であるこの岩舟の、壬生家に円仁が生まれたのは、新しい日本の幕開けである平安時代の初年、西暦7年でした。円仁は、時代を自ら切り開いていったのです。名刹大慈寺の広智という不出世の教育者との出会いがあり、入門。そして808年、15歳にして、日本仏教の若きリーグー、比叡山の最澄のもとで、新たな研鑽を始めました。(来年が最澄入門1200年記念の年です。)

厳しい修行と他宗からの働きかけ等により、学生が比叡山から脱落する中、円仁はじっと耐えて、来るべき時を待ちました。さらには、師匠の最澄没落後も里にはおりず、日々精進をして、師最澄の教えを全うせんとしましたが、人々が放っておかず、再三再四の要請により、説法を始めました。あるいはこのころ、ふるさとと東国に巡錫(じゅんしゃく)し、人々の魂を導いたかと思えます。

42歳の折、ついに円仁に入唐の勅命がくだります。くしくも835年というのは、日本の一時代を築いた空海の入定の年であり、まるで歴史から、空海の後の日本文化をたくされたかのようです。(実は意外に天台密教と真言密教は親密な関係にあったと私は見ています。)

838年、慈覚大師一行の遣唐使は、苦難の果てに入唐します。しかしなぜか天台山には入山を許されず、決死の覚悟で帰りの遣唐使船を脱出します。
五台山にて修行の成果を挙げた後、首尾よく長安に行き密教の大法を授かったのも束の間、なんと武宗皇帝の乱心したかのような仏教の壊滅的な弾圧‐に遭遇し、ついには軟禁状態か、犯罪の逃亡者のような生活を余儀なくされます。世界3大旅行記としての評価の高い漢文の日記「入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゅんれいこうき)」の、苦難の残り6年間は、涙なくして読み進められません。今よき現代語訳が出ておりますので、興味のある方はぜひ読んでください。


円仁は、日記のみで偉大だったのでは勿論ありません。
まず師匠の最澄が残した無念さを晴らしてあまりある求法の成果がありました。天台宗においては、一宗の課題が解決され、前進を遂げました。また空海から遅れを取った密教の充実です。真言密教には手薄の「蘇悉地界」(そしつじかい)の密教をもたらしました。また円仁は日本初の梵語の習熟者でした。
そして念仏(南無阿弥陀仏)、声明(しょうみょう)の紹介者、五十音図作成の可能性と、きりがありません。

慈覚大師円仁はまた、写経行の元祖とされ、全国のみ寺の写経会(しやきょうえ)の多くが、円仁を祖と仰ぎおこなわれています。なお、私のみるところ、円仁は平安時代の名僧の最後の名筆家とも言えます。

866年、70歳での入滅の2年後、日本初の大師号を師の伝教大師とともに受号します。人々からの徳望の高さを象徴しておりましよう。

なお、慈覚大師円仁をキーマンとして、岩舟が、最澄、空海らの教線拡大の舞台となったことも見逃せません。空海と最澄とのつばぜり合いは激しいものでしたが、ついに天台宗が大きく足場を固めました。また、日光は本来華厳と密教の牙城だったと思われるのですが(空海は、日光史の劈頭を飾る、伝説的な「二荒山の碑銘」を揮毫し、東国に空海の名を轟かせていた時期で、日光入山の伝承もあります)、円仁が来光し、即時にひっくり返したと私は見ています。

いま、東の国の名刹という名刹が慈覚大師円仁開基、ないしは中興にかかるものです。慈覚大師円仁を育んだ岩舟の風土の大きさを思わずにはいられません。

文化のふるさと岩舟
岩舟の歴史と自然、文化の大きさは格別です。
岩舟の古墳文化は、その石室の形態等から、歴史的視点から再評価されねばなりません。
岩船山は民間信仰の大きな拠点でした、だからこそ鳥取の寺院、名願上人との結縁が成ったのでしょう。岩船山は天下の地蔵尊として尊敬を集め、鎌倉後期は、新田義貞が祈願に来ました。また江戸時代を通じての、徳川家門閥累代の、岩舟地蔵信仰は、数え上げれば切りがありません。

大慈寺も古来連綿と信仰のメッカとの役割を果してきました。
また岩船山が、植物学者の注目すべき貴重植物の自生地であることをはじめ、豊富なくわがた、蝶等々、岩舟の豊かな自然環境は圧巻とさえいえます。

三鴨山は、万葉集における東国の貴重な歌として詠みこまれたことをはじめ、中世以降、歌の題材のメッカとしての名を欲しいままにしてきました。その風土ゆえ、慈覚大師円仁のみではなく、さまざまな偉人が輩出、ゆかりを持ち、さらには夢の興亡を演じてきました。

円仁を継いだ比叡山の座主は、大慈寺の弟弟子の安慧(あんね)でした。小野小町の伝説(大慈寺祈願、身投げ、墓、い草伝説)もあります。
また藤原秀郷が平将門を討った、舞台ともなり(村桧神社に戦勝祈願)、武勇を謳われた武人もいます。
中世、戦国時代、そして近世にかけての史実も、枚挙に遑(いとま)がありません。

新田義貞の祈願の後も、親鸞上人が立ち寄ったり、一遍上人がやってきました。上杉謙信、武田信玄らの戦国大名の領地の取り合いの、代理戦争の場ともなり、岩舟をめぐる覇権争いは特筆すべきものがあります。
それらを岩舟の山々と川たちはやさしく、悲しく見続けてきたのでしょう。

ふるさとと私
私が今日あるのは、ふるさとのおかげである、原点そのものです。まず生家新里の目の前の岩船山、そしてやや遠望の三鴨山。そして三杉川。その他の山河。特に岩舟の歴史と伝統の全てを見てきて三杉川は、象徴的存在です。
三杉川のほとりは、歴史と文化との魂の流程であり、合流点なのではないでしょうか。
そしてふるさとの、愛にあふれた人々。私はふるさとで生まれた事に大きな喜びを持って生きています。

幼時より「晴釣雨読(せいちょううどく?)」のような日々でした。小さいときはざりがに釣り(とアラビアンナイト)です。少し大きくなってはどじょう釣り(とアンデルセン)。もう少し上になっては、はや釣り(と少年探偵団)。そしてまぶな釣り(とドフトエアスキー)と、段階を経て、釣りが興じてまいりました。
とうとう大学においてまで釣りの会を設立し、大学の講義においてすら、釣りの極意は書道の極意、ことによると人生の極意にも通じるかも知れない、と嘯く(うそぶく)ほどであり、岩舟で培われた私の釣り魂は消しようがありません。

もちろん、釣りや読書がすべてではなく、すべての自然環境、文化環境が、そして家族、友人、先生、近所の皆様、親戚すべてが、自分の先生でした。

そして東京で心が弱ったときに、支えとなるのがふるさとの岩船山であり山河であり、三杉川であり、ふるさとの人々の面影なのです。
東京に出たことで、今日に至る友が得られました。歌人の俵万智さんと、演劇の横内謙介君とは、大学の授業が縁となった友人であり、彼らにより、 ふるさとへの愛と逆にふるさとのありがたみに目が開かれ、感謝の念で一杯です。いずれ岩舟のために賛同、協力してもらえるのではないかとひそかに勝手に願ってはいます。

今や、岩舟町は、東北自動車道により、平成の交通の要地、文化の発信地として再生しようという真最中です。すばらしい花センターがあるのも、風上の力があらばこそと、納得するものです。

慈覚大師円仁等、岩舟町の伝統、文化の、独自性は際立っており、自給自足できる、偉大な文化の伝統等があることは間違いありません。
どうか皆様も、岩舟に生まれた誇りを失わず、未来に羽ばたかれんことをお祈り申し上げます。

― 略歴 ―
1959年栃木県岩舟町新里生まれ。
県立栃木高校卒。早稲田大学第一文学部卒(東洋哲学専修)。
二松学舎大学大学院博士後期課程満期退学、早稲田大学大学院博士後期課程退学。
現在、早稲田大学文学部講師。研究分野は日中書道史、文化史。文学博士。

主な書作品収蔵先・・・日光山輪王寺照尊院、四国一番札所霊山寺、中国翰園碑林内石碑(河南省開封市)、他。

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