慈覚大師 円仁誕生の地としての岩舟

慈覚大師 円仁の誕生地「岩舟町説」

特別寄稿 慈覚大師円仁誕生地雑考 飯名継雄
(コスモス通信創刊号 平成15年3月発行より)

先日、岩舟町以外に住んでいる方に、「円仁さんは岩舟で生まれたとも言われているのですよ」と話したところ、 「え、円仁さんは壬生町の生まれではないのですか」という意外な返答があった。
 当然のことと思っていることを言って、驚かれた筆者は逆に「それはどうしてそう思われたのですか」と質問してみた。 そうすると「岩舟のことは知りませんが、壬生の駅前には大きな看板で<慈覚大師円仁誕生の地>と書いてありますよ」という返答であった。
なるほど、壬生の駅前には大きく、そのような文字の看板が設置されている。これこそ情報が広告によって大きく影響される典型的な例であるように思われた。

慈覚大師円仁誕生の地 看板

言うまでもなく、平安時代に活躍した天台僧大師慈覚円仁は、歴史的文献では「都賀郡」に生まれたとされる。
 都賀郡といっても広く、その具体的な誕生地としては、「壬生町説」と「岩舟町説」との二説がある。 そしてこの両方の町が、それぞれ誕生地として正しいと言い張っている。

円仁誕生時に「紫雲」が出て大慈寺僧広智が発見したという伝説も、かたや岩舟町では広智が大慈寺の裏山から南の空に雲を見たといい、 かたや壬生では広智が大慈寺から薬師寺に向かう途中、北の空に紫の雲を見つけたと言っている。

円仁讃仰のためには、どこが誕生地であろうといいではないか、という意見も確かにある。
それはそうであるけれども、「町おこし」や「世間的な認知」の問題が関わってくるとなるとそうとも言っていられない。 こういうとバチが当ってしまいそうだが、経済効果をもたらす素材だとしたら、これはお互いなおさら後には引けない問題だ。


三毳山のふもと岩舟町下津原の手洗窪(盥窪)の「産湯の井」

では、何故一般の人は円仁の誕生地を「壬生」だと思い、「岩舟」であると思わないのか。それは先に指摘した過り、宣伝・広告の影響が大きいと思われる。
たとえば壬生町役場の公式ホームページ(http://www.town.mibu.tochigi.jp/shokai/gaiyou.html)をご覧になっていただきたい。 そこには堂々と「平安時代には、後に天台座主となった(壬生円仁)が誕生しています。」とある。
そもそも壬生には「大師」という地名まである。そういった慈覚大師円仁の認知度は、町民の中で非常に高い。 一方の岩舟においては、宣伝の効果がない、あるいは「ほとんど宣伝していない」というのが現状である。
岩舟町の出している広告としては、三鴨山北東にある誕生地の二箇所の入り口に、たかだか一メートル足らずの、本体自体の見えにくいポールが「慈覚大師誕生の郷」という、 これまた小さな文字とともに立てられている。たったそれだけである。

因に岩舟町の公式ホームページ(http://www.town.iwafune.tochigi.jp/)の町長(当時)のあいさつの中には「本町は、世界的偉人「慈覚大師円仁」ゆかりのふる里です。」とあるが、 誕生地としての「岩舟町」への言及はない。
行政を執行する人たちは考える。「行政は宗教に中立でなくてはならない」と。これはいまさら言及するまでもない憲法上の鉄則である。

慈覚大師誕生の地

しかし、慈覚大師円仁の誕生地を宣伝することが、行政が一宗教に加担したことになるのであろうか。 先の岩舟町長の言葉を待つまでもなく、ここで「円仁を宣伝することが宗教活動にはあたらない」ことを再認識しておこう。この考察を欠いていてはむしろ、 考察能力や文化理解の欠如というレッテルを貼らなくてはならないことになる。
 老婆心であると思うが、現在の円仁誕生地(岩舟の方)が不当にぞんざいな扱を受けていることに鑑み、行政の中に臆病な空気があるかもしれないと邪推し、一言申し添えておきたい。

この問題に別な言葉を使えば、円仁を単に一宗教人と限定するのは妥当であろうか、ということと等しい。 その点については、今さらライシャワー博士(米国元駐日大使)の言葉を引用するまでもないのではないか。

「しかしながら、円仁は、イタリア人よりも先に、かの偉大な中国に足跡を印し、ある意味ではマルコ・ポーロの記録に勝る遍歴についての業績を残しているのである。」
(『円仁唐代中国への旅』(エドウィン・O・ライシャワー、田村完誓訳、講談社学術文庫)P.36)と。

この博士の評価自体を問題にするなら、あるいは受け入れられないなら、それだけの論文や論考をもって反証すべきである。 それができないのならば、「単なる感情論」を排除して、あるいは「無知に基づいた先入観」を放擲して、博士の言葉に耳従うべきではないか。
それができないこと自体、行政が文化に対する無知を天下にさらしていることに他ならない。

ライシャワー博士が岩舟に来町したとき、厳重警戒をした中、小学生が校舎の窓から手を振り、町民あげて大歓迎した事実を、もはや忘れてしまったわけではあるまい。 彼は何のために来町したというのか。
要するに円仁は、日本の教科書に記載される人物としてとどまるのではなく、世界に誇る偉人ということである。

円仁の研究者ライシャワー元駐日大使も来訪
円仁の研究者ライシャワー元駐日大使も
来訪している

「町おこし」「村おこし」という観点からいっても、プラスの要素にこそなれ、マイナスの要素にはならないではないか。 東北地方の方々が、大きなデパートを目指して来県することが目に見えている現在、そういった観光資源を利用しない手はないのではないか。

では現在、円仁さんの誕生地はどこであるとされているのか。それを二つの観点から考えてみたい。 学問的な立場と、宗教的、即ち円仁の所属した天台宗の立場とである。

まず、学問的な観点から見れば、壬生町ではなく岩舟町の、三鴨の関近辺であるという方が、確率の高い、あるいは間違いないことであろう。
そもそも円仁の誕生が都賀郡のどこであったかに言及した最古の書物は、順徳天皇(1197-1242)の撰による「八雲御抄」であろう。 それには「みかほの関」(三鴫の関)を「慈覚大師の誕生するところなり」とある。
それに対して、一方の壬生町説は古い文献では伺うことができない。現在の大師堂は貞亨三年(1686)日光山輪王寺門跡の天真法親王の発願によって建てられたものと言われている。 そして壬生町説は、その時代からの言い伝えだと思われる。
もし壬生町説が正しいとするならば、その江戸時代初期まで800年もの間、壬生の人々は(公式的には)円仁の誕生の地を無視し続けてきたということになってしまおう。それでいいのか。

大師堂

この円仁誕生説の学問的な裏づけは、岩舟町民の一般に対して、福井康順博士の著書「岩舟町と慈覚大師円仁」などに広く紹介されている。
 そして福井博士が岩舟説をとる論拠は田島隆純博士の業績(「慈覚大師の真の誕生地に就て」「慈覚大師誕生地考」)に基づく割合いが大きい。 そして、その業績を反証するような議論があるということを今まで聞いたことがない。
要点を簡潔に述べるならば、円仁の生まれた壬生氏と壬生町の町名のもととなった壬生氏とは別系統であるということである。 言うまでもなく、故福井博士は栃木県で育ち「慈覚大師研究」などの大著を示され、最後には京都妙法院の門跡にまでなられた天台宗の学僧である。

次に宗教的な観点からどのように誕生地問題が扱われているか見てみよう。これは在家の者の知るところではない。その事情は、円仁が修行した岩舟にある大慈寺の林住職にお伺いしている。 文章にしにくいので、その内容を次に要約してみたい。

「平成14年の年頭に、岩舟町で円仁さんを題材にしたミュージカルが行われました。その公演前に、天台宗栃木教区の宗務所長さんの所へ、岩舟町の文化会館の館長さんと一緒にご挨拶に行きました。
 所長さんには、大変な賛意をいただいたのですが、その時シナリオをご覧になった所長さんが、一つだけお願いしたいことがある、と話されたことがあります。 ここに円仁さんが岩舟で生まれたと書いてあるけれど、これは、修正してもらえないか。天台宗内でもこれは非常にナイーブな問題であって、どちらか一方と決めて欲しくはない。
壬生町も円仁さんの誕生地として宣伝しているし、あちらの誕生地には天台宗の寺院も有る。そこら辺のことを考慮して、誕生地を特定しないような表現にして欲しい、と言われました。
 誕生地をそれぞれの町が、町おこしの題材として使っているわけですから、このお話は当然のことだと判断しました。そこで脚本家の方にシナリオの表現を変えてもらったわけです。」

この内容から明らかになることは、天台宗の意向としては、それぞれ大師讃仰をしているのだから、誕生地をどちらか一方に限定しないで欲しい、ということであると思われる。

以上の二点から察するに、円仁誕生地は、決して断定はできないのであるけれど、学問的には「岩舟」であろう。 しかし宗教的には、両方とも大師讃仰や町おこしで利用しているので、どちらか一方に特定することはやめてもらいたい、というのが現在の誕生地に関する態度であるらしい。

ではこれらの材料をそろえた上で、我々はどちらの、あるいはどのような態度を取ればいいのだろうか。そこで筆者は次のように提案したい。
 それぞれが、それぞれを誕生地として主張するのは、現状のまま構わない、お構いなしの態度でいる方がいい。そして最も大切なことは、相手の言い分をお互いが全面否定しないことである。
 一方が片方を否定や排除にかかると、片方もいずれつぶされる。それだけならまだいい。 それよりも相手説の存在自体を無視することの方が恐るべきことであると思われる。そうなったら、無視された方だけでなく、無視した方も凍え、固まり、沈み消えいくであろう。

であるから、誰かに「円仁は本当に岩舟町で生まれたのですか」と聞かれたら、「私たちは岩舟と信じているんですよ、壬生という説もありますがね」と、逆に「本当に壬生で生まれたのですか」 と聞かれたら、「私たちは壬生と信じていますよ。岩舟という説もありますけれど」と返答してほしいということである。
 互いに否定しあうより、お互い大師讃仰の意見を出し、議論を盛んにした方が、相乗効果の宣伝にもなるのではないか。都賀郡以外の方々の目を引くことにもなろう。 それが両者に最良の効果をもたらすものと信じる。それが筆者の最も提言したい点であり、拙稿を寄せた第一の目的である。

土屋文明も短歌に読んだ慈覚大師円仁の生誕地「盥窪」
土屋文明も短歌に読んだ慈覚大師円仁の生誕地「盥窪」

…このように筆をはしらせている最中、あまりにも意外で、心外な報道があったので紹介しておきたい。
 平成14年10月2日、3日の両日にわたって、NHK教育の午後10時よりの放送「ETV2002」という番組で、円仁さんが中国へ苦難の道をたどったという内容の番組が放映された。 そのうち2日の放映分のナレーションの中で、「円仁は栃木県壬生町で生まれ、比叡山に登りました。」という言葉があり唖然とした。
 その後、この言葉が岩舟町の中で大問題となり、教育委員会を巻き込んで、NHKへ抗議という形が採用されたようである。当然である。 公共放送が一方的な報道をし、それへの訂正放送しないということ自体、あまりにも不自然である。何かしらの契約や密約があったのか、と勘ぐられても仕方なかろう。

なお、12月4日に別の円仁さんに関する番組を今回番組を作った同じ製作会社で作成放映した。そこでは誕生地について「栃木県」と地域を限定しない表現に訂正されていた。

最後に、文章の途中で、行政の姿勢に疑問符をつけてしまったような形になったが、そうでない点がみられるということも書き足しておこう。
 平成14年始め、円仁を題材とする住民参加の音楽劇が岩舟で行われて、内外から多大の賛同を得たことは記憶に新しい。劇をご覧になった岩舟町の町長も、その舞台を激賞したと漏れ聞いている。 さすが「文化の香り」と銘うつ岩舟の町長である。プロによる幽玄な「静」の芸術だけでなく、アマチュアの無骨だが熱気あふれる「動」の芸術までも許容できる方であると拝察申し上げた。

そんな岩舟町に1200年前に円仁が誕生したごとく、誕生地と目と鼻の先に新たな観光協会が誕生した。この町長さんの号令でできた観光協会であるからして、必ずや町民の納得のいく 「観光」にしてもらえると期待している。民間主導型であるなら、なおさら誕生地の件も扱いやすいのではないだろうか。

壬生町の方々よ、および壬生町を慈覚大師円仁の誕生地と信じている方々よ。岩舟町誕生説が学問的に絶対的に優位なものであったとしても、私たちはあなた方を否定しようとは思わない。 そうでなくて、むしろ壬生と岩舟とが手を取り合って、あるいはよい意味において競いあって円仁を盛り上げて行こうではないか。
そういうことであるならば、我々は壬生町誕生説に目くじら立てて反対する必然性など、どこにも感じない。 それぞれがお互いを ―場合によっては無言であっても― 認め合い、 相手を尊重することこそ、結果的に自分を助けることになるのではないか。共存ということ、それこそが円仁の教えの精神ならん。か。

※コスモス通信創刊にあたり岩舟町外の飯名継雄さんより投稿がありました。ありがたく掲載させていただきました。(編集委員会)

岩舟人物往来伝 慈覚大師円仁(第3回)
(コスモス通信第3号 平成16年3月発行より)

【はじめに】第3回目は郷土の偉人、慈覚大師円仁です。

郷土の生んだ慈覚大師 円仁

2002年10月23日、NHK教育の「EVT2002」という番組で「慈覚大師円仁」の放送を見て驚いた人は多かったでしょう。 円仁の出生地として栃木県壬生町が紹介され岩舟町の名はありませんでした。 がっかりしているあなた。怒っているあなた。だいじょうぶ。これを読めば元気になれます。

まずこうなった原因を考えるとき、今までの岩舟町の情報発信方法ではNHKには岩舟町出生説は届かなかったんだと素直に反省しなくてはならないでしょう。 まさかとは思いますが、このままでは盥窪(現下津原手洗窪)の「円仁産湯の井」も世の中からは偽物と言われかねません。 多くの歴史家、円仁の研究者が訪れたこの地が歴史から消されるのでしょうか。政治でもなんでも、大きな声を出した方が有利になるなんてことがあってはならないのです。 もう一度「円仁生誕地」について冷静に検証してみたいと思います。

歴史書ではどうなっているのか
 通説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)の関家、 大慈寺の大檀那であった駅長、壬生首麻呂(おびとまろ)の家に至りみれば異香薫して男児が誕生した。 首麻呂の次男春雄(はるお)、後の慈覚大師円仁誕生。」となっています。 …「八雲御抄」をもとにした言い伝え。
ほら、ちゃんと岩舟町付近とわかるでしょう?。NHKさんどうします?

この説は書物を編簒した順徳天皇(1197〜1242)の時代のもので「現在の壬生町」と関連づける記載は見当たりません。

慈覚大師誕生之地 石碑

円仁の壬生氏一族は、東国を平定した崇神(すじん)天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひとのみこと)の後裔を称する一族と言い伝えられ、 平安初期まで都賀郡を勢力下に置く豪族とあります。…「明匠略伝」「天台座主記」「日本往生極楽記」「貞観六月正月記」「諸門跡記」「元亨釈書」など。

先祖とされる豊城入彦については、崇神天皇の皇子、豊城入彦が「上毛野君(かみつけののきみ)、下毛野君(しもつけののきみ)の始祖」ともあります。…「日本書紀」 東山道十五国都督はこの末裔が就任してるともあります…同じく「日本書紀」

そのため豊城入彦を祖とし、都賀郡を支配する壬生一族は東山道の駅家(みかものうまや…現岩舟町下津原〜新里)にかかわっていたと想像されています。 円仁の父壬生首麻呂(おびとまろ)は三鴨駅長をしていたといわれています。

これらを総合すると…

  1. 円仁の壬生一族は東山道三鴨駅家(みかものうまや)との関係がある。
  2. この壬生一族は大慈寺のスポンサーだった。
  3. 1、2は岩舟町の地内である。
  4. 現在の壬生町との関係は認められない。
…となります。それにしても、NHKはこれらの検討はしていたのでしょうか?

盥窪が円仁の誕生地であることを示す南篠文雄博士の撰文
盥窪が円仁の誕生地であることを示す南篠文雄博士の撰文

壬生町出生説を勉強しよう
 壬生町が慈覚大師生誕地であるという説の根拠は、「円仁の姓が壬生だったから」が根底にあります。 しかし、円仁が生まれたのは延暦13年(794)のこと。600年余の時が過ぎて、室町時代までは現在の壬生町は上ノ原(かののはら)、野州荒間地(やしゅうあらまち)などと呼ばれていました。 上ノ原生まれ、または野州荒間地生まれという文献はありません。

この地が壬生と呼ばれるようになったのは寛正3年(1462)10月太政官大使(書記官)小槻晨照(おづきあきてる)庶子として産まれ、のちに壬生をなのった壬生筑後後守胤業(たねなり) がここに土着し壬生城を築いてからとされます。 そのため「円仁はこの壬生の地で生まれた」または「円仁は壬生氏の先祖である」という壬生出生説は否定的に見られています。 壬生説の流布は16世紀以降で、日光山輪王寺の檀那、壬生城主壬生下総守綱房(つなふさ)とその父綱重によるとわたしは考えます。 綱房は輪王寺のスポンサーとなったり、京から風流人を招き連歌などを残している文化人です。円仁の偉大さを良く理解していたでしょう。 「壬生説がなぜできたか」でよく用いられる出来事としては、17世紀後半、日光輪王寺門跡天真法親王が日光に赴く途中、壬生を通ったおり「慈覚大師円仁の姓は壬生だがこの壬生の生れか?」 と聞いたのに対し、付き人が「はい」と答えたため…ということが有名です。

円仁 誕生の地 イメージ

NHKさんよく考えて下さい。円仁は壬生町で生まれたと放送した根拠は何ですか?教えて下さい。 小槻さんやその子孫の壬生さんが慈覚大師円仁の壬生一族と関係があるという証拠はどこにもないのです。 壬生の皆さんが壬生説を信じるのは当然です。でもNHKさんは両方に目を向けなくてはいけません。いずれにしても円仁の岩舟町下津原盥窪誕生説は南条文雄博士、田島隆純博士や福井康順博士ら の専門家のお墨付きがあり、学問的には立証されているのです。が、これにあぐらをかかず素人の我々だけでもできることはあるはずです。NHKさんのためにも2つの説を検証してみましょう。

岩舟説が無視できない検証のポイントはなにか
(1)円仁をはじめとする壬生一族の痕跡が残っているか?
岩舟には円仁出生地盥窪に

  • 「産湯の井」
  • 壬生氏屋敷跡(72坪)
  • 幼少時学んだ下津原の「高平寺」「面相智水の古井戸」「大師加持寿命智水」…以上宝暦6年高平寺文書
  • 9歳から15歳まで学んだ小野寺の「大慈寺」
  • 大師が座禅した「奥の院」…以上小野寺旧記
  • また、円仁の母親の墓「上岡実相院」…小野寺旧記
もあります。 すべて約5kmの直線上の範囲内です。(図1)

岩舟町ふるさとマップ

これに対し壬生寺には「産湯の井」「大師堂」があります。 大師堂は今から約300余年前の貞亨3年(1686)になってから日光山輪王寺門跡の天真法親王の発願によって建てられたものです。 岩舟説、無視できないでしょう?

(2)壬生族は東山道(とうさんどう…当時の幹線道路)の駅家(うまや…役人が利用する公用交通機関)を管轄していたと言われている。 東山道と円仁生誕地との位置関係は?
 岩舟説の場合、円仁生誕地盥窪は「三鴨の駅家」のあった下津原で東山道の要所にあります。 東山道はこのあとおよそ20Kmごとに駅家が置かれ、「国府」(栃木市惣社)脇を通り急に北上し「衣川(今の宇都宮市石井町)」、「新田」、「磐上」、「黒川(那須)」とつながります。 壬生氏の場合、上ノ原(かののはら)に在住したとする壬生一族が管轄するとしたら三鴨の駅家までは30Km。 遠いですよお。毎日通勤するのは無理です。(図2)

下野国の郡と東山道

(3)産湯の井は当時のものか?
 盥窪は有史以来三毳山麓の澤水により溜め池があり、すぐ近くに井戸が掘られています。山は削られていますが、円仁が生誕してから変わらず1200年経った今でも水は涸れていません。 一方壬生寺の産湯の井の場合1200年前からそこにあったことを納得させる説明が必要でしょう。

(4)視点を変えて神社から検討すると
 円仁の生まれた頃の都賀郡には村檜神社(むらひじんじゃ)、大神神社(おおみわじんじゃ)が延喜式内神社としてすでに存在していました。 通常神社と寺は一対で存在し、それぞれ保と呼ばれる荘園をもち、その地の祭礼を司っていました。 ご存知のように村檜神社は大慈寺と対をなして岩舟地内に存在しています。もし壬生氏が下ノ原または野州荒間地在住なら現在の栃木市惣社町の大神神社が近いためそちらの関係がより強いはずです。 神社は大神神社、寺は太慈寺の大檀那ということになるのでしょうか。これも不自然ではないでしょうか。

(5)円仁ゆかりの寺社から検討する
 円仁が縁起に関係する寺社を調べると、その弟子たちや後援者が開いたり再興したものも入れて関東に209余り、東北に331余り、その他全国に及びます。 有名な所では浅草寺、喜多院、日光山輪王寺、善光寺、大原三千院、松島端巌寺、平泉中尊寺、立石寺(山寺)、恐山などがあげられます。

では当時の都賀郡に当てはめるとどうかというと、瀧水寺(りゅうすいじ…現岩舟町曲ノ島)、山王寺(さんのうじ…現藤岡町蛭沼)、東明寺(とうめいじ…現大平町西野田)、 日枝神社(ひえじんじゃ…現大平町下皆川)、牛来寺(ごらいじ…現大平町牛久)、円通寺(栃木市城内)、大山寺(だいせんじ…栃木市平井町)、連祥院(れんしょういん…栃木市平井町)、 二杉神社(ふたすぎじんじゃ…栃木市)と都賀郡南西部に集中しています。つまり壬生氏やその後継者の勢力中心が東山道の三鴨駅から国府の間だったことを物語っています。 岩舟説をかなり後押しするデータです。

(6)紫雲の意味すること
 古文書にある大慈寺から広智が見たと言う紫雲は、「大慈寺の南に」見えたとあります。これはもともとは円仁の偉大さ、神秘性を高めるための創作でしょうが、 盥窪(手洗窪)は南、壬生は東で方角が違います。 もっとも、壬生説の場合前述した「八雲御抄をもとにした言い伝え」とは違い「広智が大慈寺から薬師寺に向う途中、北の空に見えた」と変わっていますが。

(7)ライシャワー大使が来訪し、土屋文明が歌に読んだ意義
 日本人としてはずかしいことながら、慈覚大師円仁の偉大さを世界に、そして日本人自身に強く認識させたのはライシャワー大使の研究によるところが大きいと思います。 ライシャワー大使は岩舟町下津原手洗窪の生誕地、小野寺の大慈寺を訪問され、それぞれの地に記念碑が建てられています。 それなのに、NHKさん、なんで無視するの?

慈覚大師円仁の研究もされていた歌人 土屋文明も三毳の盥窪を歌に残しています。円仁に関する土屋文明のエピソードをご紹介します。 昭和46年4月17日(土)土屋文明は壬生の友人のTさんの案内で壬生寺を突然訪れたそうです。 そこで読まれた歌が

慈覚大師御開扉過ぎし壬生寺に 灰冷々と大火鉢ふたつ

輪王寺まいり路の円仁産湯の井 けふは三毳の盥窪は見ず

です。

はじめの歌は壬生寺に円仁生誕1200年を記念して歌碑として残されています。歌碑の建立は土屋文明没後4年目のことでした。 生前土屋文明は「歌は石に刻むものではない」と遺言を残しておられ、遺族も各地からの歌碑建立を固辞されていました。ですからこれは貴重な歌碑です。 この歌碑は遺言に配慮し石には刻まず佐野の天明鋳物に刻され石にはめ込んだとのことです。この歌碑は「壬生説」を強力に後押ししているようにも思えます。できればつぎの歌も刻んでいただきたかった。
 つまり「今日は円仁の誕生地のみかもの盥窪(たらいくぼ)を見られず残念だ」…という気持ちがうかがえます。

レリーフ 山本明良(みかも焼)

皆さんに言えること、それはこのように「円仁の研究者は岩舟町手洗窪を生誕地として認めている」ということです。

今、少ない資料から検討できるのは以上ですが、円仁の生誕地には2つの説があり、1つは岩舟町下津原手洗窪(盥窪)、 もう1つが壬生町であることはNHKの製作担当者には知っていただきたいものです。 岩舟説を歴史から抹消することはだれにもできないはずです。この番組が訂正されることなくビデオやDVDとして販売されることのないように声をあげたいと思います。

まとめ 慈覚大師円仁の生誕地に関しては、無関心の方にはほんとにどうでもよい話です。 しかしながら、公共放送が学術的に正しいとされることを全く無視してしまうことは大問題です。今回の事件については専門家に「もっとしっかり抗議してくれ」と思う反面、 我々素人でもよくわかる方法で解決しなくてはいけないと思い筆をとりました。 そして壬生出生説、岩舟出生説の2つがあるのだと無関心の人達にも認めてもらいたいのです。NHKの皆さんにも。

1つの放送で傷ついた岩舟町の皆さん。もっと自信を持ちましょうよ。メディアの力に負けてはだめです。まさか「円仁って壬生で生まれたんだ。」と、ションボリしてなかったでしょうね。
(文責 島田 均,コスモス通信編集長)

【円仁の年譜】
延暦13年(794) 慈覚大師円仁、「三毳山の北東の盥窪で誕生」
9歳で岩舟町小野寺の大慈寺へ。広智のもとで勉学修行
15歳で広智に従い比叡山へ
承和5年(838) 入唐(〜10年間)、五台山へ。このとき「入唐求法巡礼行記(にゅうとうぐほうじゅんれいぎょうき)を記す。
嘉祥元年(848) 日本に帰り、内供奉(ないぐぶ…宮中の内道場の役職)
61歳で第三代天台座主その後東北地方の教化に努める(松島端厳寺、平泉中尊寺など多数の寺を開く)
貞観6年(864) 71歳で遷化(せんげ)
貞観8年(866) 慈覚大師の諡号(しごう)がおくられる。
【文献】
  1. 栃木県の歴史:阿部 明、橋本澄朗、大獄浩良:山川出版社、1998年
  2. 円仁:佐伯有清、吉川弘文館
  3. 慈覚大師:雨宮義人、下野新聞社
  4. 日本地図から歴史を読む方法:武光 誠、河出書房新社、1998年
  5. 新編姓氏家系辞書(第8版):太田 亮著、丹羽基二編:秋田書店、1994年

円仁誕生の地岩舟 綾部光州
(コスモス通信第11号 平成20年3月発行より)

綾部 光州

円仁はどこで生まれたのであるか。 これは古来、岩舟か壬生かで論争になっていることであるのですが、実は学術上では昭和38年に一つの決着を見ております。 日光山輪王寺が発行した寺報第19号中に服部清道論文によって明らかにされたのでした。 「日本三大実録」等の歴史書には、「下野の国」、つまり栃木県の「都賀郡」であるとしか書いてありません。しかしすでに平安時代から、生まれたのは、 三鴨山の近在であるとの伝承があったと見られ、たとえば鎌倉初期の「八雲御抄(やくもみしょう)という書物にはみかも(みかほ)の関における慈覚大師誕生の伝承を伝えています。 また「私聚百因縁集」(しじゅひゃくいんねんしゅう)という書物には、慈覚大師が関守の子であるとされています。

それに対し壬生町の伝承は、江戸時代が初めです(御影堂建立由来記)。 輪王寺の宮様(天真親王)が日光への道中、供のものに下問されたことで、苦し紛れに答弁したことが、発祥のようで、古文献に資料がないことは、局面を難しくしています。 しかも壬生の地名発祥となった初代壬生氏は、室町時代になってやってくるのです。したがって壬生町誕生説は、砂上の楼閣のごとく、危うい面を持っています。

慈覚大師 円仁像

一方、平成に入ってからは「熊倉系図」が再認識され(『円仁』)、慈覚大師の父君の、三鴨駅長という地位や、壬生首麻呂(みぶのおびとまろ)との氏名まで判明して、 岩舟町誕生説はますます磐石となってきました。 われわれは、円仁が生まれた土地としての誇りとゆとりと優しさを持ちつつ、同じ慈覚大師円仁のゆかりの里としての共存共栄を目指したいものであります。 くしくも、昭和45年に来町され、お話をされた(誕生地は岩舟町であることを断言されました。)世界的な仏教学者の福井康順先生が、輪王寺の出身の学僧であったことは印象的でした。 ご子息福井文雅先生、愛弟子菅原信海先生が、私の恩師である奇縁も感謝せずにはいられません。

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